2011年10月の記事一覧
第2回 蜜さん講義(平成23年10月11日) 前半
蜜さん:
始めて良いよって言われないとよくわからないので、良いよって言ってくださいね。
齊藤:皆さん、良いですか?
参観者:はい。お願いしまーす。
蜜さん:では、どうやら良いようですので、ここから行きましょう。
蜜さん:
トイレがすごく近くて、迷惑な子どもだったって話。トイレに行きたいって言わないとトイレに行けないシステムであるってことを学ぶことが大事。自分の身体感覚の一部を認識するのにちょっと疎い子だったんです。
蜜さん:
私、すごく言葉が流暢なので、「エコラリアとかオウム返しとかが無かったんじゃない?」って思われるんですけど、私、これはエコラリアだったんだと思うんですね。「おしっこは?」って聞かれたら「トイレでするもの!」って答えて、その場でおしっこしちゃうっていう。言葉の意味が分かってない。なんか、上の句と下の句みたいな。お母さんは「したいの?したくないの」?って聞いてるのに。この含みが私には分からないから、「おしっこは?」って聞かれたら「トイレでするもの。おしっこはトイレでするもの。おしっこはトイレでするもの」って言って、そのまましちゃう。
これは意思の疎通の問題で、言葉の流れを推測するのが難しかったのかな?って今は推測してます。「その後どうなるの?」「それはどういう意味?」っていう、言語能力とか社会性とか、身に付くまで結構時間がかかって、大人から意味不明な子供だったんじゃないかなと。すごくよく喋って、反応も良いのに、奇怪な行動をするということがあったんじゃないのかなと思います。言葉が話せるからといって油断をしていると、本人が発言していることとやってることが何か違うっていう。「あれ?確認したことと違うことやってない」ってことが発達障害の人の場合はあるんじゃないかなーと思います。
蜜さん:
お茶碗が割れたっていう話です。いまだにそうなんですけど、これすごく良い!って思ったものがあると、しかもそれをしばらく使って納得しちゃったり、気に入り具合が激しくなると、壊れた時の衝撃が半端ない!それから、失くなったとか、落としたとかも。つい先日も、カバンのここところに、すっごい可愛がって、大好きだった犬の遺骨が入ってるんですけど、このネジが外れてカランって落っこちて、中から遺骨がポロって出ちゃった時に「ああ、うちの犬の一部が出てちゃった」と思ってパニックになって駅で、泣いちゃったんです。今でもそういうことがある。
小さい頃はもっと大変だった。ほんの些細なことですよ。頭の切り替えが出来ないんです。汽車の模様がついた使い慣れたお茶碗があったんですね。それが自分のお茶碗だってことは知ってて、それを食事の時に使うんだっていう暗黙の了解が自分の中にあって。知らない間に定着してしまったルールっていうのが、その食器だったんですね。見慣れたっていうのは既にルールなんですよ。
ある日、洗い物の最中にお母さんがお茶碗を割っちゃったんです。私、どうなったと思いますか?ご飯は、汽車の模様のお茶碗で食べるってことが染み付いちゃってたんで、明日からはご飯は食べられない!って思い込んじゃったの。大変だあって思って。「明日からは、ご飯は食べられない」って言って、すごい大パニックになって。「なんてことをしたんだ」ってお母さんを責めたんです。で、お母さんは「同じお茶碗買ってきてあげるからご飯が食べられるよ」って言ってくれたんですけど、私にとっては、目の前の割れてる茶碗だけが私の茶碗なわけです。「同じ茶碗」って言われても理解できないんです。想像力がないから。「同じ茶碗」ということがうまく想像できないんです。「同じじゃないんです」もうすでに。割れたのは私の茶碗で、割れてない茶碗がイメージできない。だから「どうしよう、明日からご飯が食べられない」ってお母さんに猛反論しました。その後、お母さんどうしたと思いますか?
齊藤先生に答えて欲しいですよね。皆さんはどうしたと思いますか?
参観者:ボンドでくっつけた。
蜜さん:
ブー!この答え、面白いですよ。「大きくなったからもう一回り大きいお茶碗使おうね」って誤魔化した。目先をそらすんですね。上手いでしょう?それで、新しいお茶碗を購入してきたんです。しかも壊れてもパニックにならないように予備にもう一つ。
実はこのカバンも私の家にもう一つ買ってあるんです。そうじゃないと大変なことになるから。壊れてもパニックに陥らないように、二つ以上買っておくっていう予防線はすごい大事なんです。だからもし、ちょっとこの子は予防線はっとかないとやばそうだなって子がいたら素知らぬふりして普段から「二個とも両方、君のだよ、一個失くなったけどもう一個あるからなんとかなるよー、乗り切っていけるよー」って言われると、「はぁぁぁ、よかったあ」みたいな。
ちなみにその後も、お母さんまた上手かったんです。またお茶碗割っちゃうんですよ。そしたら「もう見慣れたから違うお茶碗にして気分を変えよう」って。上手いでしょう。気分を変えようとか、何か付け足してこう新しくしてく。賢いなぁって思います。
蜜さん:
洗濯バサミの話。感覚のせいだと思うんですけど、お母さんの洗濯に付き合うのが大好きだった。特に、洗濯バサミが好きで。こう全部(指を)挟むと、どこまでが自分の体かってのがすごくはっきり分かって、それがすごく気持ちいい刺激だった。丁度良い刺激。好きな洗濯バサミがあって。いまだにうちのお母さん、使ってるんですけど、たまに挟んで遊んでます。洗濯バサミを使ったっていうのは他の人からも聞いたことあるんですよね。みんな体の端っこが気になるんでしょうかね?
蜜さん:
ここからが新しい話になる。あっ!先生にしたい話があったな。でも、先に入園の話をしましょう。お母さんの都合で、私は二つ目の保育園に四歳位の時に移ったんですね。保育園が移ったってよりは、お母さんに連れて行かれる距離が長くなって、しかも万華鏡が失くなったみたいな(第1回の講義参照)。意味が分かんない感じでした。お母さんは私に向かって「大人はね、会社に行ってお仕事があって、それをするんだよって。あなたはね、子どもでしょ?子どもの仕事は遊ぶこと」って言われたんです。そうやって保育園に連れて行かれたんです。
そしたら大変なことが起こっていました。子どもがバーって走ってるんですよ。しかもギャーって言ってるんですよ。何が起きてるか、分からないんです。「はぁ!?」って思って。万華鏡みたいな小さな穴から見ているくらいの刺激には耐えられたんですけど、目の前をこう走り回ってこうなってて、水とかバーってなってたりとかして。何が起こってるのか分からないんです。怖くて、すっごい勢いで泣いて。工事現場と一緒ですね。刺激が多すぎて、音も多すぎてびっくりして泣いちゃって。ギャーギャー泣いたもんだから「今日はちょっと無理ですね」「お母さんから離れたくないんですね」って保育園の先生が言って。でも違ったの。怖かったの。「何やってんのあれは?」って。「遊ぶところって言ってたけど何でどう遊ぶのか、何で誰も何も言ってくれないの?」って思ってやっていられなくって。
ある日ですね、三日目くらいかな?カナータイプの自閉の子が、こうやって跳んでたんです。落ち着いてますよね、リズミカルで。私もそばで、こうやって跳んでたんです。そしたらお母さんいなくなってたんです。私がその子と目線合わせながら跳んでる間に。たぶん、跳んでるタイミングが心地よくて、それに合わせているうちに怖いのを忘れてたんですね。そこに意識が集中して。その子にこう、懐中電灯がぽっと当たったような感じになって。メジボフ先生は、自閉症の人の視野っていうのは、暗闇で懐中電灯を照らしているようなものだと。すごく狭くて、そしてはっきりとしている。定型発達の人はもっとフォーカスが広くてぼんやりしている、って言ってるんですけど。
そういう感じで、私はたまたま目線があったその子にフォーカスが、ビシッとはまった。そしてその間に、お母さんに置き去りにされました(笑)。
齊藤:その後は、何ともなかったの?
蜜さん:その子とずっと遊んでたんです。
齊藤:毎日?
蜜さん:毎日。
齊藤:心地良かった?
蜜さん:
それがですね。心地良いんじゃなくて、何て言うんでしょう。違和感が無かっただけなんですね。怖くなかったっていうか。
齊藤:なるほど「心地よい」の前に「違和感がない」があるんだね。
蜜さん:そうです。
齊藤:面白いとか楽しいじゃなくて。
蜜さん:
何か怖いことが起きない感が大事でしたね。その子に何かとんでもないことをされるって感覚がなかった。他の(定型発達の)子は、私の予測できないことをするんだけど、その子は私の予測できないことというか、不快なことをしない子だってすぐ分かった。何でかは、よく分かんないけど、たぶんこの子は私の嫌なことしないって思ったの。それから、その子を見つければ安心だと思って。保育園に行くと、その子を見つけて安心!みたいな。その子は、カナータイプの子なので、特別に先生が一人付いてて。それでその子とコミュニケーションしてると、ついでに先生も付いてきて、私の管理をしてくれるっていう便利な状況になったんです。先生からしたら本当は一人の面倒を見れば良いはずなのに、何故か二人の面倒を見るという訳の分かんない感じになってたと思うんですけど。私としては管理してくれる先生がいっぱいいるみたいな感じですごい便利でした。
あっ、思い出した。齊藤先生、ちょっと先生にクイズ出したいです。さっきのクイズ(齊藤は先ほどクイズの場面、中座していて内容を知りませんでした)。
蜜さん:
私、汽車の模様が付いたお茶碗でご飯を食べるのが習慣になってたんですよ。それである日、お母さんがお茶碗を割っちゃったんです。私パニック起こして明日からご飯食べられないって言って、人生に絶望したんです。しょっちゅう絶望するんですよ、私。大変なことがあると。で、明日からご飯食べられないって受け入れられなくて。パニック起こしました。お母さんが「同じお茶碗買ってきてあげるから明日もご飯食べられるよ」って言うんですよ。でも私にとってのお茶碗は、目の前で割れてるお茶碗で、割れてないお茶碗は全然想像できないんです。それに今割れたお茶碗が私のお茶碗であって、新しく買ってくるお茶碗は私にとって別物なんですよ。だから受け入れられない。「違うよー」って猛反論したんです。さて、この時、お母さんどうしたでしょうっていう。これすっごい上手いですよ、うちのお母さん。みんな思ったでしょ?上手いなーって。
参観者:はい。
蜜さん:ほら!教育相談とかしてるんだから、先生、答えてくださーい。
齊藤:
僕が子どもだったら、物事を丸ごと更新して欲しいから「明日からはこのお茶碗に変わりました」って言うかな。
蜜さん:
正解。流石!そう、しかもうちのお母さん、理由がちゃんと付いてるの。お母さんは、「あなたはもう大きくなったからもう一回り大きいお茶碗使おうね」って。理由がちゃんと付いてるから、納得したんです。
齊藤:代替可能だっていう資本主義的価値観は通用しないんだね。
蜜さん:はい。
齊藤:だから、もう丸ごと変えるしか納得の方法はないもんね。
蜜さん:そう。目線を変えたんです、お母さん。
齊藤:理由がまた納得しやすいものだった。
蜜さん:
はい。現在の私にも役立ってて、実はこのカバンも二つありますっていう話をさっきみなさんにしました。
齊藤:それは失った時のリスクを考えて?
蜜さん:
はい。ないとだめなんです。これコールマンの限定リュックなんですね。こんなリュックはもう二度と手に入らない。背中にも馴染んで使い勝手も慣れた。これ壊れたら私どうなるでしょうって。また大パニックですよ。だから予防線張ってます、っていう話をさっきみなさんにしてました。
蜜さん:
やっちゃんという私のお友達について少しお話したいと思います。
あ!その前に先生が来たら話したかったのが、佐々木正美先生の講演を聞いて思ったのこと。お母さんとの愛着形成ってのが、生まれてすぐの子どもには大事だとされてて、二歳くらいまでの間にしっかりとしたお母さんに対する信頼感、お母さんから無条件で愛されているっていうことを実感して、それに応えていくことができるようになることが障害児であってもなくても必要だって。だから極端な話、「お母さん嫌い」って言える子はすごいお母さんのこと信頼してる子だと思うんですよ。「嫌い」って言ってもお母さん離れてかないって分かってるから言うんですよね。そういうことが言えるくらいにお母さんと仲良くなってる子は、大丈夫なんじゃないかなぁって思うんですけど。
でも、お父さんとはやっぱり色々接点を持たないと育たないらしくて。何でお母さんと愛着が育まれやすいかというと、お腹にいる時に、声の響きとか、そういうのも聞いて学んでいるらしいんですね。だから、お母さんとは愛着が先にできるっていうのがあって。私、お父さんというものの認知がすごく遅かったの。お父さんは、お母さんに仕込まれて認知したんです。「お父さんというのが家にはいるよ」って。
齊藤:
子どもが生まれる前に雄がいなくなったり、死ぬ生物種はあるもんね(笑)。人間のお父さんも家族の中で、影が薄いのかなあ。
蜜さん:
はい。私が保育園行く前に会社に行って、寝てから会社から帰ってくる人だったから、お父さんはいないも同然だったんです、私にとって。見えないんですもん、だって。夜中に踏みつけて「ぎゃっ」て言うくらい。「あ、いた」みたいな。私、変な子で、寝ながら半分くらい起き上がって、そのまま隣にいるお父さんに頭打ち付けるように、夜中に腹筋運動する子どもだったらしくて。それでお父さん、私の頭蓋骨で顔面ガーンって打たれて、「うぎゃっ」とか言ってて、何か声上げる変な人みたいな。それがどういう意味の人なのか全然よく分かってなくて。お母さんは「それはお父さんと言ってね」って。「夜ね、あんたがご飯食べた後、居間で寝ちゃうでしょ。居間で寝ちゃった後に知らず知らずのうちに運んでくれているのはお父さんなんだよ」とか「お父さんはね、よそでお金を稼いできてくれて、そのお金であなたはおやつを買ったりご飯を食べたりしているんだよ」とか。保育園に行く途中に、散々その話ばっかりするんです。お父さんが一体どういう生き物かっていうのをお母さんから教わって「そうかそうか」と思って。たまの休みにお父さんが、ブランブランとかしてくれると、「おおっ!これがお父さんか」みたいな。突然現れる変な人みたい。何かオプション的。
齊藤:
僕も子どもがいるから、子どもから見た父親と母親との違いは何となく分かる。
蜜さん:
分かります?私、そういう認識でした。私が自閉だったせいなのかなんなのかよく分からないんですけど。お父さんって、後付けだったんですね。お母さんに言われて、「そうか、そういう人も一緒にいるね、確かにいるね、たまに踏んだらギャッて言うね」みたいな。そんな感じでしたね。
ハイハイし始めた頃に私、さっき言った懐中電灯の話なんですけど、いまも歩くときもそうなんですけど、視野が結構せまいんです。注意を払っていられるのがこれぐらいの視野しかないので、真正面見て歩くと足元が危うくて、落っこちるか、逆に下しか見てなくて、正面のものに当たるか。危険な感じで歩いてるんですけど。ハイハイの頃から既にそうだったみたいで、ハイハイし始めた頃に、うちのお母さんが他の子と一緒にハイハイしてるところを眺めながら「何でうちの子は何でもかんでも踏みつけながら歩くんだろう」って思ったって言ってました。よその子ってハイハイしながらでも、物をよけて自分で道つけてきながら歩いてく子が結構いるらしいんですね。私は、何でもかんでも踏みつけて歩くっていう。ぐちゃぐちゃにしても何も気にしない。怪獣のような。そんな感じだったらしいです。
齊藤:物が視野に入っていなかったということ?
蜜さん:
というか、物をよけるとか、大事だとか、壊れたら大変とか、そのへんの予測が何にもできないからでしょうね。意味が分からないんです。佐々木正美先生が言ってました。TEACCHの人たちの考え方は、自閉症の人は、周りの環境のことが自分では理解しにくい、把握しにくい人。説明してもらわないと、理解できないタイプの人たちなんじゃないかっていう話があって。それと同じですね。きっと意味が見出せなかったんだろうなって。
さて、やっちゃんの話です。この話、私すごくしたかった。私、他の子どもとは協調性持てなくて遊べなかったけど、やっちゃんとだけ遊べた。彼が自閉症だって知ったのは私の診断が下りた後で、同じ保育園に通っていたお母さんののママ友からの情報で。
私、お母さんに言われて「あの子のお家に行って遊んどいで」って言われて遊びに行くことはあっても、その子を友達だと認識して遊びに行ったことって一回もないんですよ。エリっていう子がいて、エリのことを認識したのはお母さん同士がまずお友達だったからなんですね。年齢が近くて。私の母がいて、母と親しい人がいて、それのオプションとして、エリ。私は母のオプション。母がいない時は、そのお家のお世話になる。オプションのエリが付いてくるっていう。友達っていう認識じゃなかった。たぶんこの頃、友達と言えるくらいに分かってたのは、このやっちゃんくらいだったかなと思います。
何やってたかって言うと、すごい安心な人で、すごい(遊びが)意味ないんですよ。例えばここにマグネットがあるじゃないですか。するとやっちゃんは、黄色のマグネットだけ取り出して並べていくんです。これを私と交代交代にやるんです。「黄色いのが並んでるって法則だね」って分かった瞬間に二人で顔を見合わせて、にやって笑うっていう。以下、繰り返しみたいな。分かります?分かるでしょ?そういう遊びをしてて、でも言葉が無いので、他の人には全然その遊びの意味が通じないんですよ。
齊藤:そういうのは楽しいよね。
蜜さん:
色を交代にして縞々にするとか。私たちにとっては意味はあるんですけど、他の人にとっては全然意味のないことをしてた。でも遊びってそういうことですよね?子どもにとっては意味のあることだけれども、大人にとっては全く意味がない。だから遊びって言われる。石ころの形が似ているのを並べてって、ちょっとずつ違うのにして最後、変な石にするとか。書けない石からどんどん書ける石を並べていくとか。
齊藤:蜜さんの思いついた法則で遊ぶの?
蜜さん:
いえ、向こうがこうきたら、私がこうするって感じで。この子の言語レベルってどれくらいだったと思いますかみなさん。言える言葉、すごい少いですよ。「いやー」とか「ぎゃー」とか。人の名前は「お父さん、お母さん、山本先生、私の名前」以上。妹いるのに。妹の名前覚えてなかった。赤ちゃんだから。そのうち、「妹」とか言うようになったんですけどね。これくらいしか言えない子と、ずっと遊んでました。お友達と遊ぶってことに目覚めた頃です。つまり、万華鏡(第1回講義参照)をようやく脱出した。
齊藤:何歳くらい?
蜜さん:
四歳ですね。近くのスーパーで、やっちゃんが、私を見つけると「○○ちゃーん」って言いながら駆け寄って来る。私が見つけるよりも先なんですね。彼は私より更に視野が狭くて、ピントが合っているので、ピシッと見つけて、ダーって寄ってくるんです。
お店の陳列棚って楽しいんですよ。同じもの並んでるし、隙間があったらそこ埋めてみたりとか、日付順とかに並べるとか。あと色の違うのをちょっとずつ並べてみたりとか。色々やって遊んでそのままにして帰ってきたりとか。すごい楽しいんですよね。セールでいつもと並び順が違うと、やっちゃんと「並び順が違うね」みたいな感じで無言でニヤニヤしあったりとか。それだけで通じるみたいな。ただニヤニヤしてるだけで、あんまり意味は無いんですよ。ただ違和感がないっていう安心。他の人だと、まず違和感がどーんって来るんで。
齊藤:目を合わせるタイミングが合うと、やっぱり通じてる感は大きいの?
蜜さん:
分かんないんですけど、ジーっと見てると、ふっと何か同じところを見ているような気がするんです。例えば、私今、先生のパソコン見てますよね?こうやってそばで私が見てると、先生は私を見ていなくても、一緒に見てるような気がしません?(蜜さんが齊藤の後ろに立ち、齊藤のパソコンを一緒に並行的に見る)。
齊藤:うん、する。
蜜さん:
そういう時に「あっ、見てる」って思って、横見ると向こうもやっぱり見てる。「あっ!」みたいな。そしてまた自分たちの遊びに戻ってく。
齊藤:一緒に見てるって気配を感じているんだね?
蜜さん:
そうです。でもそれだけ。「うん」と頷きあうとか、アイコンタクトみたいな合図は送らないんですよ。ただ「あ、見てたね」っていう事実を確認して納得みたいな。「同じことに一応興味あったね、終わり」みたいな。でも、自分と同じ興味を持っていない人よりは違和感ないでしょう?
齊藤:うん、そうだね。
蜜さん:
同じことに興味ある人の方が、興味無い人より違和感ないから安心だったんです。
齊藤:共同注意が潜在的にはあったってことだよね?
蜜さん:たぶん。やっちゃんにも私にもあったんです。
齊藤:
相手の行動を観察して「一緒に見ている」と確認する前に「見ているはず」という予感がちゃんとあるってことでしょう?
蜜さん:
もしかしたら、別の可能性もある。やっちゃんが私の遊びに手を出してくるせいかもしれないです。私が、何かを並べているとやっちゃんが突然こうやってビシッと次のマグネットを置いてくるから「あ!私のルールに気付いた」という感じが起きるのかも。
齊藤:そういう場合もあるね、なるほど。
蜜さん:
やっちゃんはきっと、私の行動を見ているうちにルールができて、そのルールにのったというだけで、自分もそれに参加してみようというような、私と絡もうっというつもりはなかったのかもしれない。でも「私は絡まれた」って思ってた。
私がやっちゃんに絡む時の方は危なかったですね。私が彼にいきなり関わっていくと彼はびっくりするんです。自分が私に絡む時は調子よく入ってくるくせに。
齊藤;柔軟性は蜜さんの方が高かった?
蜜さん:
うん、私は絡まれても、「おう!?」って思うけど、やっちゃんは、私が「イエーイ」って絡むと、「ギャー」みたいな。それでも何か同じものに注目したって意味で、やっちゃんは他の人よりは、私には違和感がなかったんだと思う。私の名前覚えてくれて、近寄ってきてくれて、一緒にニヤニヤするぐらいにはなるっていう。そういう感じです。
齊藤:
最近、自閉症児の発達相談でも似たような事例に会いました。子どもの意思が分かるようになってきたご両親は、子どもの行動を先取りして手伝うようになった。するとその子どもは、ご両親が、手を出したとたん、無言で身体を震わせて怒り、ギャーと泣いちゃうの。ご両親は「一体、どうしたんでしょう?わが子の気持ちがわからない」って困ってた。僕は「たぶんそれ手を出してほしくないんだと思う」と答えた。そして「自分のプランが先にあるんだと思う」と説明した。
蜜さん:
車の運転してる時に、指導教官にフロントガラスのことを「前の画面が、前の画面がちゃんと見えない」って言ったことがあって。見てる世界は画面って感じなんですね。それから私、見えないところにビジュアルモニターみたいなものがあるらしくて、ここから先(視界の斜め上辺り)見えてないんですけど、そこに映像がフワッと出てきて、そこに昔の記憶とかを読み込んだりすることがあるんです。
小さい頃、まだ漢字を覚える前に、井村屋の肉まんを食べるのが習慣になってたんですね。「お腹減ったなぁ」って言ったら井村屋の肉まんをもらえるっていうのを知ってたんで、「お腹減ったなぁ」って言うことにしてたんですね。それだけ言えば良いと思ってて。井村屋ってロゴのいっぱい入った紙をペラって剥がすって、記憶があるんですけど、井村屋って文字はまだその頃、読めなかったはずなんです。でもその頃の記憶を、ここ(視野の外のビジュアルモニター)で再生すると“井村屋”って、大きくなってから読めたんです。
齊藤:
画面みたいに見えるってことは、その画面に予測しないものが入ってくるとびっくりするよね。テレビ見てる最中に関係のないモノが突然映り込んだら怖いよね。そんな感覚に近いの?大人が途中で手を出すということは、予測しない映像になるってことだね。
蜜さん:
齊藤先生、That‘s right!です。自分の視野を遮られたりして読めなくなると怖いじゃないですか?
齊藤:怖いし、腹立つよね。
蜜さん:そうです。
齊藤:侵襲性が高いよね。
蜜さん:
そこの先何あんの?!みたいな。それに何の意味があるの?どういうことなの?「怖いよ、怖いよ」っていうのがずっと続く。
齊藤:
目の前の風景が画面のような感じがするっていうのは、雨野カエラさんも似たようなこと言っててね、世の中は映画のようだって。映画のスクリーンと蜜さんの画面は似ているね。見えているけど、映像の中に自分はコミットしていない。向こうの世界で起きてるような感じがするっていうことを言ってた。そこには主体としての自分が含まれてない感じなの?
蜜さん:
んーと、見えますよこの辺(鼻の辺り)とか。時たま予測してないときに自分の足とかが、下から出てきてそれに躓いて転んだりすると、私の足のくせに言うこときかなかったって混乱することがありますけど。そういう具合にちょっとコントロールきくようできかない世界として感じているのかもしれません。
齊藤:
視野を遮られても怒らない子どもって、相手をコントロールできると思ってるからだと思うのね。「どけて」って言えば相手は応えてくれると信じているから。でも、コントロールきくようできかないっていう世界観を持っているならば、その世界をそのまま保持しておきたいと普通は思うよね。変化してしまったら元に戻せなくなるかもしれないから。
蜜さん:
自分がどうすればよいのかっていうビジョンが無い。だから、自分の見えてる世界をコントロールしようとしないし、世界をコントロールできるという自覚が無くて。何とかしようと思ったときには既に遅いみたいな。時間がもうとっくに過ぎていたりとか、後付けで意味が追っかけてきてズーンと身につまされるみたいな。
齊藤:
世界に対して、受動的だよね。自分で世界を変えられるって感じはしない?
蜜さん:しないです。勝手になっちゃうもんだと思ってる。
齊藤:
映画の筋を、聴衆が観ながら変えられると思ってる人がいないのと同じように。
蜜さん:
はい。それに、映画だったらエンディングがあるって分かるから、怖くないじゃないですか。時計見てればどれくらいって分かるじゃないですか。だから怖くないんですよね。何分、我慢すれば良いって分かるから。でも人生っていつ終わるか分からないでしょ。一体自分がいつ死ぬか分かんないんですもん。 そういう感じです。それは怖いでしょ?だから我慢できない。
齊藤:
うん、それは怖いわ。先の見えない、予測のつかない長い映画を観ている感じ?
蜜さん:そう。
齊藤:
うわあ、それ怖いわ。“時計じかけのオレンジ“だっけ?僕、あれ観たとき、途中で嫌になった。
蜜さん:時計じかけのオレンジ?ちょっとトリッキーな映画?
齊藤:
そうそう、スタンリー・キューブリック。自分はどこに連れて行かれるんだろうっていう不安定な感じ。
蜜さん:
私、あれを見た時は、予測の範囲内だったので、大丈夫でした。
齊藤:そうかあ。あれくらいじゃ、びっくりしないのかあ。
蜜さん:
あれのどこが奇才って言われてるのかが理解できなかったぐらい。普通じゃない?だってもっと怖いこといっぱいあるでしょ?って思った。自分が血出してそれがいつ止まるか分かんないとか、他の人に怒られてるのがいつ終わるか分かんないとか。そういうことの方が、よっぽど怖いでしょって思ってるんですよ。だからスタンリー・キューブリックなんて、箱の中のことだからパチってスイッチ切っちゃえば終わるし、二時間経ったらおわるとか三時間経ったら終わるとか。すごい安全でしょ?
齊藤:なるほど。
蜜さん:
おままごとの遊び方ってみなさん普通、見立て遊びだから役割とかやりますよね?それって何を言われなくても、やり方がインストールされていらっしゃる方がほとんどだと思うんですけど、私、分からなかったんですね。
保育園には、全部で八組のおままごとのキットがあったんです。箱があって。机が蓋になってるっていう、そういうセット。積み重ねたり並べたりすると四角い箱がいっぱい並ぶっていう、すごい素敵なものがあって、「イェイ」ってなって、それを色んな形に並べていって、その上に決まったようにお茶碗とかを並べて、箸は箸とかで並べて。私は、そのおままごとキットを、毎回違うパターンで並び替えるっていう遊びをするものだとずっと思ってました。だから八組そろわない時は遊べない道具だと思っていたんです。で、一人で遊んでいる時に「一つくらい貸してよ」って言われたら遊びが成立しなくなっちゃうんです、私の中で。だから、「なんで!!!」みたいな感じで猛抗議です、先生に。一組あればみんな何人かで共有して遊べるって先生は思ってる。だけど、私は八個ないと遊べないと思ってる。
齊藤:
一箇所パターン変えて、引いてこう眺めると、「わーこんな模様になるのかあ」みたいな?
蜜さん:
そうそうそう。「イエーイ」みたいな感じでまたそれを繰り返すみたいな。お茶碗を重ねるので言えば、「お碗を下、お茶碗を上」にするのか、「お茶碗を下、お碗を上」にするのかとか。立体パズルみたいな感じでずっと遊んでましたね。大間違いですね(笑)。その状態でいつまでもおままごとキットを占有してるんで、保育園でしょっちゅう怒られてました。ずっと意味が分からなかったんです。
蜜さん:
何で並べるかっていうと、さっきコントロールできないものが怖いって話をしたと思うんですけど、コントロールできる範囲内ってすごく限られていたので、コントロールできるものっていうのがすごく安心だったんだと思います。
自分のルールで並べたものはコントロールできてるものですよね?視覚的に確認できて安心できて混乱の少ないもの。だってお碗を下にして、お茶碗を上にしてしまったものは、後で蓋開けてもまだそうなっているはずですから、それは安心。だからおままごとキットで困ったのは誰かが使った後に順番がおかしいときです。それでイライラして。全部ひっくり返して、また並べて、みたいな。きれいになったら、「ふぅー」みたいな。バリエーションも自分で選べますよね。他の人への配慮をしなくても没頭できる遊び、他にパズルとか、そういうのは安全なのかなと。ルールも端からやればいいとか真ん中からやればいいとか自分で決めれば良いし、周りの人に邪魔されなければ混乱も少なくて安心かな。
それに合わせてくれる人がいたら、それが初めて共有とかっていうことになっていくので、合わせてくれるっていうことがないと共有に繋がらないのかな。やっちゃんと私の関係はそうだったのかなと思います。私がやっちゃんにいつのまにか合わせていて、やっちゃんの中で共有感が生まれたから私に名札がついたんです。○○ちゃんていう。そういうことをしていかないとリアルに他者を認識できないっていうことがあったりするのかなって思います。
第1回 蜜さん講義(平成23年10月4日)
・相手が合わせてくれるならば、ないしは100%自分のやり方でよければ、関係ができる。等分の距離を持ったまま付き合うのが難しい。
・就職すれば、仕事だけに専念できるので、他者とやりとりは必要ないと思っていた。でも実際は違った(笑)。
・幼児の私は、ある日、ストーブの上の網が横棒だけだったので、縦線が欲しいと思った。そこで、割り箸を縦に並べて置いた。そしたら燃え出して、びっくりした。置いたらどうなるかイメージしなかった。想像力の問題ということか。
・燃えた割り箸を集めて母に持っていった。燃えていたけど、熱くはなかった。冷たいような、しびれたような感覚はあった(感覚鈍磨)。お母さんは燃えている割り箸の束を握っている私を見てびっくりしていたが、私の方はお母さんが何にびっくりしているのか分からず、混乱していた。私は、割り箸が燃えたことに驚いていたのだけれど・・・(笑)。
・子どもの可能性をつぶさないことが母の教育方針だった。他の大人に比べると、説明の多い大人だったと思う。
・「あなたは何をしたいの?」と、私にいつも尋ねてくれた。
・1分間のワークの後、開口一番、どうして皆さんは、今、テーマと関係のない話をしたのですか?と我々に投げかける。
・皆さんは、指示されていないのに、まず雑談をしていました。私達は、その雑談ができない。いつもテーマにまっしぐら!
・相手の話だけを聞いていて、非言語的な情報(表情やしぐさなど)を読み取れない。
・非言語的な情報は見えてはいるけれども、メッセージ(相手の意図)が含まれているものとは思っていない。
・会話中、相手の言葉の内容を理解するのに精一杯で、自分にとってどんな意味なのか考えるのにまた時間がかかる。
・生まれた時の記憶。すごく、まぶしいと感じたことを覚えている。すごく泣き叫んだ記憶もある。母親に聞いてみたら、すごく泣いたのは生まれた直後とのこと。だとすると、まぶしいと感じたのは手術台の光だったかもしれない。
・乳児室に寝かされていた時のこと。カメラのフラッシュに対して、私だけ痙攣していたので父親は驚いたそう。視覚過敏だった。
・ちょっとした物音に対しても、身震いして、泣き叫んでいた。
・衣擦れの音がとても嫌だった。なぜなら、母親が離れていく音、物が動く音だったから。怖いという気持ち。
・パチンコ屋の騒音について。全身が傷口になったところを刺激されるような感覚。
(聴覚刺激なのに触覚的に捉えられているところが興味深い。うるさいというよりも、痛いという感覚)
・怖くて身動きができくなる。その場で固まっていた。母親に抱きかかえられて、その場から離れる。
・大人になってからは、そのような不快な体験は、「心の引き出しに入れる」ことで対処するようになった。無理やり押し込んで、なかったことにする。
・大きく揺らされると、安心できた(おそらく遠心力で身体全体が腕に押しつかられる感覚が気持ちよかったのだと思われる。深部感覚)。
・小さいときは、文句を言いたかった記憶しかない。
例えば、天井でグルグル回ってるやつが、見えなくなる、風が吹いて違う動きをするだけでもびっくりしていた。その景色に順応すると落ち着くけれど、また抱っこされて景色が変わると、そこでもびっくり。
・「安心だよ、怖くないよ」という大人の言葉を素直に信じてしまう。こういう可能性もあるから危険である、ということも説明しないといけない場合もある。
・答えは「偶然通りがかった近所の人にあけてもらい、無事帰宅できました!」
でした。
・答えは「帰宅時におばさんについてきてもらい、母の目の前で、チョコレートをもらわなかったよと説明してください!と、おばさんに頼みました」でした。
・一日中、見ていられた。映像に飽きると、姿勢や位置を変えるだけで、リフレッシュが可能だった。視点や体感が変わるから。
・その穴が他の子どもにも見つかり、押入れが大変なことに。ぶつかって痛いし、困った。
・そのうち先生に見つかってしまい、危険だということで穴がふさがれてしまった。
・その後、ふさがれた押入れの穴のそばで、映像を思い出して楽しんでいた。私にとって、押入れの穴は、「音のなる万華鏡」だった。
・トイレに行きたいのかどうかがよく分からなかった。
・母親の言葉によって初めて、排尿や排便が自分の身体に属しているものだと気付いた!
「これはしなければならない義務なんだ!」と思った。
・お金と交換。ルールとして、母親は保育園に入る前から私にやらせていた。
・私としては、その行為の意味が分からなくても、システムとして納得できればよかった。
・知識の修正が難しいことを母親は「自閉症者の頭は、CD-Rであって、RWではない」と言っている。
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<質問コーナー>
参加者:
パチンコ屋の騒音のエピソードについて。なかったことにできるようになったきっかけは?
蜜さん:
大人になってからできるようになった。パチンコ屋には、距離をとったり、近づかなかったりしていた。でもある日、工事現場のそばをどうしても通らなければならなくなった。ある日、目をふさいで通ったら、足が動いた!目を手のひらで完全に覆ってしまうと大丈夫だった。それをやっているうちに。見えなかったことにすればよいと思うようになった。その後、アレンジしていき、心にたくさん引き出しを作ることにした。嫌なことはその引き出しに入れて、しまってしまう。そこにあるのは知っているけど、しまっているので耐えられる。ちなみに目を閉じるだけでは光が入るのでダメ。耳は、ふさいでも完全に刺激を遮断できない。聴こえてしまう。それに、音は振動。皮膚でも振動を感じているので感じてしまう。
私の耳はとても敏感。自分の呼吸音もうるさいときがある。東大の先生が言ってた。定型発達者も可聴閾外の音も脳には入力されているそう。脳波上は反応しているらしい。私達自閉症者は、その可聴域外の音を不快に感じるらしい。デジタル補聴器を使って、耳に入る音を可聴域に限定できるようにすると良いらしい。
参加者:飛行機に乗ったときは大丈夫だったのか?
蜜さん:
3歳のときは、頭の中がゴーって鳴っていた。怖くて、固まっていた。でも、何度も乗っているうち、死なないと言うことが分かって、大丈夫になった。私にとって、不快=危険ということ。見慣れればよいではない。何も起こらないというのが大事。
メジボフ先生の適応のための3条件は、①離席の自由があること。これは、音がうるさいなどの理由で、身体が動かなくなってしまうから。②発言を求められないこと。どうでもいいか、どうしても必要か、というように二分化している。中間がない。ほとんどの質問は中間に属することだから、尋ねられても関心のないテーマなので、よく分からない。だから、答えようがない。答えないでいると自己主張がないと、否定されてしまう。③は困ったとき発信すれば助けてもらえること。
高機能タイプにはもう一つ加えたい。それは、否定されないこと。例えば、似合わないね、ではなく、こういう服がいいよ、と言ってくれたほうがいい。ルールや解説は、子どもの言語レベルに合わせて話すことが大事。ロン・クラークの「あたりまえだけど、とても大切なこと」が面白い。ぜひ読んで欲しい。これを読んでおけば、もっと学校生活が楽しかったと思う。どうして今になって、この本と出会ったのだろうという悔しい気持ち。「どうして学校にドリトスを持ってきていけないのか」が良い。
「あなたはどうしてもらったら、楽になりますか?」は難しい。子どもに選択をさせる前に、どんな選択肢があるのか先に示して欲しい。私達は、自分の意図や気持ちを表出するのがとても苦手。でも表出する方法をたくさん持つのは大事。
表情は、小さいときから練習してきた。入学前、母親が化粧しているのを覗いていたら「化粧してみる?」と言われた。鏡に映る化粧した自分をまじまじと見つめていたら母親が「少しは、笑ってみたら」と促された。振り返って母親の表情を見たら笑っていた。母親と鏡に映る自分の表情を見比べながら、笑顔を作ってみた。人の顔の動きというのは、表情筋なんだ!と思った。それから、練習している。普通のアスペルガーよりは表情が豊かだと言われる。